コラム・フォト

随筆の募集

同門会報では、同門会員からの随筆を募集しております。
執筆者は年齢に関係なく、ご自身の思い、趣味、旅行記、経験談などジャンルは問いませんので楽しい原稿をお待ちしております。
写真は1枚まで、文章は800字未満でお願いいたします。

写真募集要項

外科同門会では会員の皆さんの写真を募集しております。
下記要項に基づき多数御寄稿下さるようお願いいたします。

  1. 写真は随時募集しています。
  2. 選定並びに掲載する号は広報委員会にて審議し決定いたします。
  3. テーマは特に定めません。
  4. 写真のサイズは問いませんがHPに掲載できるサイズに変更させて戴きます。
  5. 写真の提出は電子データもしくは印画紙(光沢紙)とします。
  6. 投稿写真には「所属」「氏名」「タイトル」「希望掲載時期(春夏秋冬)」「一任」「トリミングの可否」「天地」を明記して下さい。
  7. 作品の説明は200字以内とし、提出の際に電子データまたは用紙で提出して下さい。
  8. 投稿作品は掲載の可否に関わらず返却致しません。

送付先

下記のアドレスまでメールでお送りください。

担当
一般社団法人名古屋市立大学外科同門会事務局
  • コラム
  • フォト
  • 「日本・ベトナム外交関連樹立50周年」
    2023年6月 ベトドック国立大学病院での講演とTAPPライブ手術を経験
    2024年7月 第一回ベトナムヘルニア外科学会にて特別企画TAPPライブ手術を経験
    −ベトナムと日本の医療に思うこと−

    医療法人純正会
    名豊病院 病院長
    早川 哲史(昭和58年卒)

    はじめに
    2023年は日本とベトナムとの外交関連樹立50周年の記念すべき年であり、その医療交流目的もあり、2023年6月3日より6月10日までの8日間ベトナムに滞在しました。腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(ラパヘル)の日本の現状と最新の手術手技について講演し、現地でTAPP法のライブ手術を行うことが主目的でした。ベトドック大学病院(ベトナム・ドイツ友好病院)は、ベトちゃん・ドクちゃんの治療をした病院として日本でも有名であるが、ベトナム5大特級国立病院の一つである。ベトドック病院の副院長であるチェン先生は、ベトナム内視鏡外科学会の理事長であり、ラパヘルに対する講演とライブ手術のご依頼をいただいた。66歳の高齢の私でしたが、アジアの地で少しでも自分の技術が求められ、社会貢献できるのであればと思い、不安はありましたが勇気を出して引き受けることにしました。
    首都ハノイではK病院(保健省一級国立病院・ベトナム癌拠点病院)とベトダック大学病院(特級国立病院・外科・救急医療病院)の2病院、その後ホーチミンに移動して、チョーライ病院(特級国立病院・ホーチミン最大の病院)と合わせて3病院を公式訪問することとなりました。ベトナムには5つの特級国立病院があり、2023年は2つの代表的な特級国立病院と一級国立病院のベトナム癌拠点病院を訪問しました。
    ベトナム訪問の主目的は、ベトナムではまだほとんど施行されていない腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP法)の普及であり、ベトナム社会主義共和国にも正式に講演と手術は申請され、公式に招聘されました。ベトドック大学病院(ベトナム・ドイツ友好病院)において、2023年6月6日の午前中に腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(ラパヘル)における2時間の講演を行い、午後からはラパヘル(TAPP法)のライブ手術をプレゼンテーションしました。この講演とライブ手術は、ベトナム全土の希望100施設の病院に同時ライブ配信され、ライブ会場とweb上でディスカッションが行われました(図1)。このベトナムにおけるライブ手術は、ベトナムの外科医師たちに鼠径ヘルニアに対する腹腔鏡治療・TAPP法の有用性などを届けられたようでした。

    図1

    そして本年、安全で患者に優しいヘルニア治療を普及する目的で、第一回ベトナムヘルニア外科学会が立ち上がることとなりました。2024年7月13日~21日までの9日間、ベトナムを再度訪れることとなり、2023年に訪問したチョーライ病院(特級国立病院・ホーチミン最大の病院)では、2024年7月16日に病院内のライブ手術2例を施行し、7月17日にはベトナム最大のアジア系国際病院であるビンメック国際病院での手術指導を行い、7月19日の第一回ベトナムヘルニア外科学会では、カントー市立病院から学会場へのライブ手術を施行ました。
    今回の体験レポートでは、2年間に及ぶベトナムの基幹5病院の見学及び手術で経験したことについて、個人的な感想を含めて科学的根拠の乏しい内容もありますが、私の思いついたままを自由に述べさせていただきます。

    ベトナム社会主義共和国について
    釈迦に説法のようになりますが、ベトナムについて少し総論的な情報を述べさせていただきます。図2にあるように、南北は1,650㎞あり、日本の宗谷岬から佐多岬までの距離と類似した縦長の国家です。54の民族からなる多民族国家であり、86%がキン族でホーチミンなどの大都市に住んでいます。基本的に無宗教国家であり、民間信仰が大多数となっています。
    図3に示すように、1955年アメリカのケネディ大統領がベトナム戦争を開始し、ジョンソン大統領に引き継がれ、その後1975年のニクソン大統領時代まで、なんと20年もかかって戦争が終結しました。1976年にベトナム社会主義共和国が成立したのです。ベトナム人の戦死者は300万人、米軍の戦死者は58,220人と言われており、ナパーム弾の開発と使用、枯葉剤の開発と使用により、多数の死者とベトちゃん&ドクちゃんのような奇形児が大量に生まれました。第二次世界大戦における日本人の死者が300万人で、米国の死者が418,500人と比較すると、20年という長い期間の間に非常に多数のベトナム人が国内で戦死しました。ベトナムは屈することはなく、最後は社会主義国家を勝ち取り、アメリカを中心とする資本主義を敗北に追い込み、撤退させた唯一の戦争であったように思われます。今繰り返されているウクライナ戦争も、この先どの様になっていくのか、日本国民として未来をしっかり見極める時期に来ているのかも知れません。このような歴史を持つベトナム社会主義共和国は、戦後の高度成長は著しく、第二次世界大戦後の日本のように、今後はさらに大きく発展する国であると感じました。

    図2
    図3

    ベトナムの人口状況
    2023年末にはベトナムの人口は一億人を超えました。国民の平均年齢は33.3歳であり、日本国民の平均年齢の48.6歳と比較すると、驚くことに15歳以上若いのです(図4)。2022年のベトナム人口年代分布図は、50年前の1970年の日本人口年代分布図と非常に似通っています(図5)。戦後の日本の高度成長時代のように、ベトナムは今後大きく躍進する国家の一つとなると思われます。2023年の日本人口年代分布図を見ますと、人口は今後極端に減少することが、現在大きな問題となっています。日本の未来のあり方について今から真剣に考えていかないと、30年後にはこれから躍進すると思われるベトナムと異なり、大変な時代が日本に到来すると思われます。何か策を講じないと、ベトナムに追い越されてしまうかもしれませんね。

    図4
    図5

    第一回ベトナム医療訪問 2023年6月3日~6月10日

    ベトナム癌拠点病院のK病院を訪問
    [K病院:1923年に腫瘍の専門病院として設立、1969年保健省の一級国立病院となる]

    私が胃癌、大腸癌の腹腔鏡手術を合わせて1,000例以上経験し、ダビンチロボット支援手術を7例経験していることから、初日はベトナム保健省の傘下にあるハノイのK病院に向かい、日本とベトナムとの癌治療における医療情勢についてのディスカッションを行いました。K病院は日本で言う国立がんセンターの立場を担っているベトナム随一の癌拠点病院です。K病院群全体の病床数は1,500床で、年間外来数は40万人以上であり、年間手術件数は25,000件以上と言われています。
    ミーティングにはトゥアン院長、ビン副院長、各領域の責任者が出席しました(図6)。まずは、日本とベトナムとのお互いの癌における医療状況についての情報を交換しました。K病院での内視鏡外科手術は20%程度のようで、まだまだ開腹・開胸手術が多い状況であると伺いました。日本の名古屋市立大学の消化器外科では、ほぼ100%に近い症例に内視鏡外科手術が行われていること、その中でもロボット手術が80%以上を占めていることを伝えると、ロボット手術をほとんど行っていないベトナムの先生方は、目を丸くして非常に驚いてみえました。
    K病院にはダビンチが一台装備されていましたが、ダビンチロボット手術の執刀可能な医師は副院長のビン先生のみであり、あまり稼働していない状況でした。私がダビンチ胃癌手術を日本では7例施行しており、ロボット手術のcertificateを持っているなどのお話をすると、「胃癌の患者をすぐに明日準備できるから、明日ここでロボット手術をしてもらっても大丈夫ですよ」と冗談交じりに言われ、ベトナムの医療情勢における内視鏡外科手術と日本と異なるロボット手術の現状が、初日から垣間見えたようでした。
    K病院の手術室の見学が許され、手術室では日本と同様に3Dカメラを使用した大腸癌の腹腔鏡下手術(図7)、咽頭がんの内視鏡手術(図8)、ラパ胆などの内視鏡外科手術を見学しました。手術件数は非常に多いことから、ベトナムの術者の内視鏡外科手術時の手の動きは非常に早く、かなり症例数をこなしていることが理解できました。日本の若い外科医より遥かに手の動きは訓練されている状況であると思いましたが、私が見る限りでは、定型的な安全な手術手技における教育は若干不足しているように思われました。しかしながら、手術時間は短く、チームワークは良く、声を掛け合いながら非常にスムースに手術が流れている印象を受けました。咽頭がんの手術では機械出しの看護師はいなく、外回りの看護師が1名のみで、医師2名のみで手術は行われており、麻酔科医は3,4ルームをラウンドしながら管理している状況でした。こんな状況でも手術室の雰囲気は和やかであり、スタッフの少ない中で全員が協力し合いながらhigh volumeの手術をこなしているように感じました。

    図6
    図7
    図8

    ミーティング終了後にはホーチミンの金の銅像の前で、ベトナムと日本の今後の医療交流を推進させようと副院長のビン先生と固い握手を交わし(図9)、K病院訪問の要人にのみプレゼントされる貴重な壺を光栄にもいただきました(図10)。
    ビン副院長は、日本とベトナムとの医療交流を強く希望されていました。それであれば、名古屋市立大学の消化器外科の瀧口修司教授への医療交流を希望するビデオラブレターの撮影をお願いしました。ビン副院長の長い、熱いメッセージを日本に持ち帰り、瀧口教授にお渡ししました。
    その後、2023年11月にはトゥアン院長、ビン副院長が名古屋市立大学病院を見学・訪問され、瀧口教授と共に私も日本での懇親会に同席させていただきました(図11)。その後は、2024年2月に瀧口教授を中心とした名古屋市立大学消化器外科の多数のスタッフがK病院に出向き、ロボット支援手術指導を行い、ベトナムと日本、K病院と名古屋市立大学病院との外科医療交流が現在では開始されています。K病院と名古屋市立大学消化器外科との医療連携交流において、瀧口修司教授には多大なるご尽力をいただき心より感謝し、ベトナムに露払いに出かけた私にとっても非常に嬉しく、今後のベトナムと日本との医療交流の発展を期待しています。

    図9
    図10
    図11

    ベトドック大学病院での講演とライブ手術の経験

    [ベトドック大学病院(ベトナム ドイツ友好病院)「5大特級国立病院」:1906年フランス植民地時代にインドシナ医科大学の一部として設立、外科診療・救急医療における保健省の特級病院、ベトちゃんドクちゃんを治療した病院]
    ベトダック大学病院は、ハノイ随一の外科救急医療病院であり、断ることはなくすべての救急患者を受け入れる病院です。病床数は1,200床、手術件数は年間7万件と言われており、手術室は51ルームあります。私はK病院訪問翌日にベトドック病院での講演とライブ手術を行いました。ベトドック病院では前日に患者さんの症例検討会があり、翌日の2023年6月6日の朝7時30分から、ベトドック病院における外科・救急医療スタッフの朝のカンファランスに出席しました。講演と手術を執刀する目的で日本から訪問している外科医師2名(早川哲史、早川俊輔)として、カンファランスの最初にご紹介があり、ご挨拶させていただきました(図12)。カンファランス会場は朝から活気にあふれ、立見の医師を含め救急外科スタッフ、研修医など150名ほどの医師が出席していました。日本と同様に、若手は立っているなどの着席場所にはある程度のルールがあるようでした(図13)。もしかすると、日本より序列は厳しいのかもしれないと感じました。

    図12
    図13

    朝カンファランスでは前日1日の救急外科入院患者の症例提示があり、その日は36名と驚くほどの入院患者数でした。そのうち26名が交通事故などの外傷患者であり、一般救急患者の入院は10名でした。短時間ですごいスピードと早口のベトナム語で、症例紹介が流れるように過ぎていきました。時に会場からの質問やコメントが入る以外は、症例検討というよりも入院患者紹介のような流れでした。症例報告の一部の少し不鮮明な写真の提示となりますが、手や足が大きく損傷した症例や多臓器に及ぶ高エネルギー外傷などの症例が次々に登場し、日本の救急医療病院とは患者の数や状況が大きく異なっていると感じました(図14)。現地に行って経験したベトナムの交通状況を考えると、このような事故による緊急手術患者が多数生まれるのは当然かなと感じ、ベトドック病院の手術件数が7万件となるのも納得できました。(図15)。

    図14
    図15

    100施設をつないだ同時ライブ講演
    ベトドック病院での2023年6月6日の手術当日は、朝のカンファランス終了後の午前中に2時間の講演を行い、午後からがTAPPライブ手術というハードスケジュールでした。講演の司会は、ベトナム外科学会理事長のザン先生にしていただきました(図16)。鼠径部の発生学的筋膜構造、私が1993年から開始したTAPP手術の日本の歴史、JSES技術認定制度の歴史と現状などの総論の話から、TAPP手術手技、メッシュ展開法、腹膜縫合法の注意点、ピットホールなどの各論を詳細にお話しさせていただきました(図17)。この講演は、ベトドック病院の現地では90名ほどの外科医が聴講し、ベトナム外科学会の関連施設の約100病院に同時ライブネット配信され、ベトナム中の外科医が自由に聴講できる状況で行われました。講演はベトナムの外科医師や手術室看護師などの医療スタッフも閲覧することから、講演内容は英語からベトナム語に翻訳して行い、ベトナム語の医療同時通訳を交えて行いました。ベトナムではほとんど鼠径部切開法の治療であり、ラパヘルが僅か1%程行われているだけの状況であり、その中でもほとんどがTEP手術で行われていました。ベトナムでは見慣れないTAPPの解剖構造や手術手技の場面では、会場の先生方も目を見張る状態で、瞬きしないほどの真剣な眼差しで聴講していただきました(図18)。

    図16
    図17
    図18

    会場やwebで閲覧されていた先生方からのご質問は、「なぜ日本はTAPPが中心となっているのか」、「技術認定制度の受験条件は何か」、「技術認定を取得したインセンティブはあるのか」などのご質問があり、現在の日本の状況をご説明しました。残念ながら、ベトナムではTAPPがほとんど施行されていませんので、外科医からは手術手技上の質問は何もありませんでした。ラパヘルは未だにベトナムではほとんど施行されていない状況であり、今の日本と比較すると少し悲しい思いでした。私が30年前にラパヘルを開始した、1993年頃の日本の鼠径ヘルニア治療と同様な現状であると思われました。

    実際のべトドック病院での手術
    ベトドック病院での鼠径ヘルニアの患者さんは、28歳と非常に若い青年でした。手術前回診をさせていただきました。今回の患者さんは、共産党の特級病院で指名されて手術を受けることもあり、緊張しているようでした。担当医から説明がすでに終わっているのか、何の質問もなく「お願いします」の一言でした。特殊な患者であったり、予想外の医療事故が起きたりした場合には、全責任をベトドック病院にお願いする内容の書面が欲しいと申し出ました。責任者のチェン副院長は、「ベトナム一の特級病院で我々が推薦した日本の医師に国家が認めて手術をするのであるから、何が起こっても全く問題ない」と言われ、資本主義国家と社会主義国家の相違を大きく感じた一瞬であり、少し安心できました。
    ベトドック病院では初めてのTAPP手術であり、手術前には何度も日本とベトナムとで連絡を取り、手術機器、手術環境のチェック、手術材料などの入念な打ち合わせを行いました。すべての道具はベトドック病院にあると確認しましたが、手術道具や鉗子のスペックなどが不安であり、日本からベトナムに持ち込むことの承認をいただきました。空港の入管やどこかで足止めを食らうのではないかと心配していましたが、一枚の許可書をいただき、その許可書を見せればDr.Hayakawa関連の持ち込みはすべてOKと言われ、持ち込みはスムースにできました。社会主義国家では、その点は統制が取れているように感じました。
    手術時には、日本では驚くような事件がいくつも発生しました。まず5㎜硬性鏡が準備されていると聞いていましたが、ベトナムの外科では5㎜硬性鏡などは使用したことがなく滅菌されていませんでした。看護師長が登場して、「早川先生、20分で滅菌できるから大丈夫」と言われホッとしましたが、プラズマ滅菌機ではなく、薬液に20分浸すだけの昔日本でも行われていた薬液滅菌でした。図19は現地のトラブルに対して、通訳を交えて対応策を真剣に検討している写真です。内心ドキドキものでした。腹腔鏡カメラヘッドは薬液滅菌もすることなく、消毒されたビニール袋に包んでそのまま使用する方法でした。非常に使い辛いのですが、私は1990年時代の日本の腹腔鏡手術でもこの滅菌ビニール袋は使用していましたので、懐かしい思いがありました(図20)。メッシュを使用する手術ですので、異種蛋白や異物の暴露、感染などが少し心配でしたが、ベトナムの流儀に合わせるしかなく、必要な手術機器は薬液滅菌にて消毒を行いました。

    図19
    図20

    手術を開始すると5㎜の硬性鏡のメンテナンス不十分で、内臓レンズの歪みで画像も歪んでおり、映像が霞のように曇って見える事実に遭遇しました。現地で使用している鉗子はかみ合わせが悪く、細かい作業ができないような手術器具が多く、日本から持ち込んだ鉗子を滅菌して使用することとしました。患者さんには申し訳なかったと思いますが、切開創を大きくしたり、12㎜ポートに変更したりするなどの手術法を臨機応変に変更し、何とか手術はほぼ完璧の形で最後まで無事に完遂できました。海外での手術は、やはり何が起こるかわかりませので、動揺しない心の安定と覚悟が重要であるとつくづく感じました(図21,22)。

    図21
    図22

    手術終了後には会場とwebとの総合討論がありましたが、ベトナムの先生方は多数最後まで残っていただいていました。朝7時半のカンファランスから始まり、2時間の講演、30分ほどの休憩を挟んで午後からライブ手術、その後の総合討論と非常に長い、厳しい一日となりました。総合討論終了後は若い先生と私との記念写真会のような状況となり、感謝の言葉と共に多数の若い外科医と記念撮影ができたことは一生の思い出になりました(図23)。このような多数の外科医が喜んで記念撮影に来てくれることは日本の講演ではあまり経験することはなく、ベトナムに手術指導に来て、本当に良かったと心から思いました(図24)。講演の模様は、ベトナムの新聞やベトダック病院のホームページに掲載されました(図25,26)

    図23
    図24
    図25
    図26

    ベトナム5大特級病院であるホーチミンのチョーライ病院訪問
    ホーチミンにあるチョーライ病院は、ハノイのベトダック大学病院と同様に5つの特級国立病院の一つです。ベトナムの南部地域では最大のマンモス病院です(図27)。外来には1日4,000人ほどで年間123万人の患者が訪れ、ベトナム南部のあらゆる疾患のすべての患者を受け入れている病院です。訪問時は最初に院長にご挨拶し、外科の副院長のチュン先生とスタッフとの医療交流のディスカッションを行いました(図28)。チョーライ病院の説明では、現在までに心臓移植手術7例、肝臓移植手術30例、腎臓移植手術を1,226例施行しており、積極的に移植手術も行っている最新の病院でした(図29)。特に驚いたのは、チョーライ病院における死亡患者の死亡原因です(図30)。交通事故、外傷、中毒死が2022年の死亡原因の40%程であり、日本の大きな臨床病院ではありえない死亡原因の数値になっていました。ベトナムでの現在の社会情勢が大きく反映されていると感じました。

    図27
    図28
    図29
    図30

    病棟を見学してみると、6人部屋には所狭しで10人程入院しており(図31)、廊下にもストレッチャー様のベッドが5台ほど並んでおり(図32)、本来であれば6人部屋である部屋に廊下も合わせて15人程入院している状況でした。一見して、日本ではメチャクチャの入院状況であり、どんな患者管理をしているのか不思議に思い、担当医師と看護師長に状況を尋ねました。重症患者は室内で治療し、軽症患者は廊下で管理するような体制が、暗黙の裡に了解されている状況であり、入院患者から文句が出て大きなトラブルは起きていないとの説明を受けました。写真の黄色のベストを着ている人は、入院患者の家族であり、検温・服薬・食事介助・清拭などの補助看護師のようなお手伝いをしており、自分の家族だけではなく、隣の患者や他の入院患者のお手伝いもするそうです。看護師は少人数で対応しており、入院患者の家族の手助けを受けながら、病院スタッフ、家族、患者全員で医療を守っている姿が垣間見られ、私は非常に感銘を受けました。社会主義国家の利点であるのかもしれないと感じました。日本では有り得ない光景ですが、今後の日本でも学ぶ必要があるような、一つの医療や福祉の形態がここには存在すると思いました。
    外科医のスタッフに働き方について質問しました。ベトナム特級病院の選りすぐりの医師ですので、非常にまじめで優秀さを感じる37歳の若手の外科医でした(図33)。外来診療日は朝の5時に家を出て、6時から外来診療を開始、17時までに150名ほどの外来患者の診察を行い、ほとんど昼食を食べる時間は無いようでした。患者は、ホーチミン周辺の遠くの町からも何時間もかけて受診に訪れるようで、患者のために朝6時から診療を開始しているようです。チョーライ病院は社会主義国家の5大特級国立病院であり、すべての外来患者、入院患者を受け入れており、原則患者を断ることは許されないようでした。

    図31
    図32
    図33

    医師には、2週間に一回程のサイクルで辛い、長い外来診療日がありますが、自分の決まった担当患者はいなく、その日に受診する患者をすべて診察・治療・処方する診療形態であるとの話をしてくれました。つまり基本的には特殊な患者以外は主治医制ではなく、患者は自分の担当の先生の外来を受診するのではなく、チョーライ病院に通院しているという理解で治療を継続しているようです。つまり、患者さんは毎回受診する先生が異なるのですが、チョーライ病院のすべての医師を信頼して受診してくるのです。最近ではベトナムでも働き方改革が進み、スタッフも増えて、辛い外来診療日のサイクルは長くなり、17時には外来医師が当直医師に交代する仕組みも出来上がり、働きやすくなりましたと笑顔で喜んでいました。日本の若手医師では、まだまだこの体制でも耐えられないかもしれません。
    一般的には35~40歳程度の外科医の給料は手取りで10万円ほどであると聞きました。物価も安いのですが、あまりに医師の給料が安いことには驚かされました。一般の国民の年収が50~60万円程度のようであり、医師の給料はその倍以上はあることになります。外科医の彼は、2時間半以上の手術に入れば日本円で700円ほどのインセンティブがあり、前日は2件の手術に入ったので、1,400円貰えると満面の笑みで語ってくれました。チョーライ病院訪問の帰りに、欧米風ハンバーグのコンボを食べましたが、ハンバーグはベトナムでは高価で1,700円ほどの値段でした(図34)。2時間半以上の手術2本のインセンティブより、ハンバーガーが高いとは厳しい医療労働条件であると思いました。それでも彼は外科医らしく手術が大好きで、沢山の手術に入って勉強して、手術が上手くなりたいと目を輝かせていました。手術が上手くなりたい、緊急手術でわくわくしていた自分の若い頃を思い出し、やはりどこの国に行っても外科医は外科医であり、幸せな職業であると改めて思いました。非常に忙しい状況で給料も安く、大変ではないですか、と質問しました。彼はこの病院で働いていることが自分の誇りであり、家族の誇りなので、このままこの病院で長く働き続けたいと言っていました。自分のために、家族のために、国家のために、今を大切に生きる若い外科医が眩しく見えて、心洗われて、思わず微笑んでいる自分がいました。

    図34

    第二回ベトナム医療訪問 2024年7月13日~7月21日

    2024年7月16日 チョーライ病院 TAPPセミナー及び院内ライブ手術
    今回の訪問では、昨年訪問したベトナム5大特級国立病院であるチョーライ病院で手術手技の講演と院内ライブ手術を2例行いました。チョーライ病院は医師数1,000人以上の超マンモス病院であり、講演とライブ手術には院内の100名ほどの外科医が聴講しました(図35)。今後チョーライ病院でT-TAPPを継続して施行していただけるように、できる限り現地の手術環境のままで、現地の手術機器を使用しながら、現地のスタッフと共に行う手術指導でした。
    第一例目の手術では、手術手技の解説をしながら90分ほどかけてゆっくり手術を行いました(図36)。昼食を交えてのランチタイムでは、再度TAPP手術の講義を行いました。午後からは、ベトナムの若い外科医のTAPPを指導しながら手術を施行しました(図37)。チョーライ病院では年間5万件以上の外科手術が行われており、一緒に担当した外科医の腹腔鏡手術手技の技術は驚くほど高いものがありました。指導しないと予想外の領域の切開剥離が始まり、何度も交代しながら手術を進行しました。ベトナムの外科医には腹腔鏡技術はあるが、高い手術レベルの指導者がいない状況であると感じました。私が手術操作を指導すると、比較的容易に手術を進行することができました。腹膜縫合も非常にスムースで、縫合のコツを指導するとまだまだ当然雑ではありましたが、見事に縫合閉鎖することができました。勤勉で正しい手術手技の習得に飢えているベトナムの若い外科医が、優秀な指導者に恵まれれば短期間で飛躍的に医療技術が進歩するであろうと痛感しました。
    今回の講演とライブ手術映像の全ストーリーが聴講者により撮影され、講演&手術当日には私の断りもなく勝手にユーチューブに配信されていることに驚きを感じました。数日で何十人もの視聴があり、ベトナムの医師の勤勉さは理解できましたが、個人情報などの管理の甘さにも驚かされました。そんなこともありましたが、今後はアジアにおける医療水準を高めるために、更に日本とベトナムの医療交流は推進すべきであると確信しました。

    図35
    図36
    図37

    2024年7月19日 第一回ベトナムヘルニア外科学会

    学会特別企画 T-TAPPライブ手術
    2023年のべトドック病院訪問後に、ベトナムでは安全で合併症や再発が少なく、患者に優しい治療を推進する目的で、2024年7月19日に第一回ベトナムヘルニア外科学会が創設されました。私がベトナムで最初のTAPP法のライブ手術を行った影響は大きく、学会長のベトナム医科薬科大学副院長のテュアン先生から学会特別企画として、学会場とカントー市立病院を繋いだTAPPライブ手術を依頼されました。2023年のライブ手術時の医師会懇親会場でテュアン先生とは席が隣になり、日本のヘルニア治療情勢をお話しした縁もあり、是非とのご依頼であり、お引き受けすることにしました。
    第一回ベトナムヘルニア外科学会では、予想以上に参加者が多く盛大な会となりました(図38)。私が希望者に準備した英語に翻訳したT-TAPPのテキスト260部は、嬉しいことにすべてなくなりました。
    学会特別ライブ手術では、カントー市立病院の外科部長にカメラ持ちをお願いし、3,5,5㎜の超細径3ポートのTetsushi-TAPPを60分ほどで行いました。腹膜縫合の速さ、世界で一番薄いメッシュの使用と展開法、発生学的解剖を重要視した全く出血しない手術操作に感銘を受けたベトナムの若い医師からは、多数の驚きと賛辞の言葉をいただきました(図39)。現在でもベトナムの医師からメールによる手術手技の問い合わせがあります。勤勉なベトナムの若い外科医たちに、何か伝えることができたと思い、今回のベトナム訪問には外科医としての達成感がありました。

    図38
    図39

    ホーチミンでの医師会懇親会に参加して思うこと
    ホーチミンの医師会懇親会に参加できる機会をいただきました。ホーチミンにおける外科、泌尿器科、産婦人科の腹部外科の中心となる代表者の医師たちとテーブルを共にしました。診療科が異なっていても、非常に温厚な会話が繰り広げられ、古くからの友人のように各科の医師が誰とでも挨拶し、非常に仲良く和気あいあいの楽しいテーブルでした(図40)。このような光景は日本でも学会などで目にすることはありますが、異なる各診療科の医師が集いながら歓談することは少ないように思います。社会主義国家のベトナムでは、日本以上に異なる診療科の交流が自由のように感じられ、今後のベトナムの医療は益々進化して行くのであろうと感じました。

    図40

    総括

    66歳となり、人生で初めて海外でのweb配信されるライブ講演、ライブ手術、ライブ手術指導を経験しました。かつてない経験の中で形のみえない愛情に気付き、溢れるばかりの知識と沢山の感動と感謝の心をいただきました。社会主義国家の現状のベトナムでは、我々日本の医療から学ぶことは沢山あると感じました。社会主義国家、資本主義国家の違いはありますが、患者を中心とした医療の普及はどの世界でも同じように大切にしていると思いました。これからの若い外科医は、是非海外に出向き、国家体制の違い、環境の違い、宗教の違いなどを学び、未来に向けて新しい医療体制を構築して行って欲しいと思います。ベトナムの若い外科医たちは、今後驚くばかりのスピードで進化していくでしょう。日本の外科医たちも負けないように修練していってほしい。今回の経験をして、私はもっと早く海外に飛び出れば良かったと、少し後悔しています。しかしながら、私も生きてきた人生の中で今が一番若いので、今を大切にし、若さを保ってこれからも頑張って行きたいと思っています。
    ベトナムの国に「ラパヘル」と言う小さな「腹腔鏡下ヘルニア手術」の小石を投げ入れました。この小さな波紋がさざ波となり、波となり、うねりとなり、K病院と名古屋市立大学病院消化器外科との医療交流となり、ベトナムと日本との良好な医療交流に発展して行けば嬉しく思います。ベトナムのヘルニア治療において、10年後には腹腔鏡下ヘルニア手術治療が日本同様に50%になっていることを期待してペンを置きます。

    留学記:アメリカ研究留学で学んだこと – Step out of your comfort zone –

    名古屋市立大学乳腺外科 上本 康明(平成22年卒)

    2022年4月よりアメリカのテキサス州ダラスにあるUniversity of Texas Southwestern (UTSW) Medical CenterにPostdoctoral researcher、通称ポスドクとして留学させていただいております。現在、留学開始から早くも1年10ヶ月が経ち、気分的にも研究的にも留学生活が佳境に入りました。同門の先生からのご支援により米国留学という貴重な経験をさせていただいているので、これまでに体験したことや学んだこと、そして留学しようか迷っている先生へむけて伝えたいことについて書かせていただきます。

    Texas, Dallasについて
    テキサス州はアメリカ南部に位置しており、日本の国土の1.5倍の面積を有する州です。テキサスにはヒューストンやサンアントニオ、オースティンなどの大きな都市があります。ダラスはテキサスの北側に位置しており、アメリカで9番目に人口の多い都市です。アメリカン航空のハブであるダラスフォートワース空港、通称DFWがあり、乗り継ぎに立ち寄った方も多いのではないでしょうか。ダラスはアメリカ4大プロスポーツのチームを全て有しており、その中でもアメフトのダラスカウボーイズはなんとサッカーのバルセロナなどを凌ぎ、世界で最も資産価値の高いチームです(約80億ドル)。日本人にとっては、かつてダルビッシュが在籍していたテキサスレンジャーズの方が有名かもしれませんね。また、ダラスにはJ Pモルガンチェイスや北米トヨタなどの大きな企業が次々と移転してきており、また数年以内にユニバーサルスタジオの施設もできる予定で、非常に活気がある都市です。トヨタだけでなく、村田製作所や京セラなど多くの日本企業がダラスには進出しているため、日本のスーパーマーケットとしてアメリカで有名なMitsuwaや、牛角、くら寿司、ココイチなどの日系レストランも揃っており、日本人 にとってはとても生活しやすい環境です。ただ、いずれも日本の3倍くらいの値段がするので、駐在の方にとっては便利でも、貧乏ポスドクである僕は滅多に行けないことは言うまでもありません。インフレや円安の影響もあり、給料をもらえるとはいえ、留学するためには本当にお金が必要です。留学を考えている先生には貯金や運用などで使えるお金を増やしておくことをお勧めします。

    自己紹介 –どうして留学することになったのか–
    今更ですが、簡単に自己紹介をさせていただきます。僕は2010年に大分大学を卒業し、トヨタ記念病院で初期研修、後期研修をしました。初期研修後に乳腺外科に入局、同門の諸先輩方に外科医として鍛えていただき、7年目に大学院入学、8年目から大学病院での勤務を開始しました。当初は正直、研究にあまり興味はなく、臨床試験に魅力を感じていました。それでも、遠山先生や鰐渕先生にご指導いただき、研究の成果を海外の学会で発表できた時には喜びを感じましたし、研究の面白さも少しだけですがわかった気がしていました。また、San Antonio Breast Cancer Symposiumでポスター発表した時に、隣で発表された先生が日本からニューヨークのPark Roswellに渡られて研究をしておられる方で、その方からBioinformaticの手法をご指導いただいたことも、研究への興味が高まるきっかけとなりました。ただ、この時点では留学したい!とまでは思っていなかったのですが、博士号を取得したタイミングで偶然にも現在所属しているArteaga Labがポスドクを募集している、誰か来られる人はいないか、という話を岩田先生・遠山先生からご紹介いただき、募集したところ、とんとん拍子で留学が決まりました。いわゆる「棚ぼた留学」ですが、これまで自分なりにできる範囲で臨床・研究に取り組んできたことを評価していただいたことでこのような機会をいただき、同門の先生方にも留学することのご理解をいただけたのだと思っております。僕がそうであったように、まだ自分が何に重点をおいて頑張っていきたいか、まだ決まっていない若手の先生はとりあえず自分に与えられた仕事を頑張ってみてください。先生の頑張りを先輩方や同僚は見ているので、いつかチャンスが巡ってきた時に掴める確率がグッと高くなるはずです。

    UTSW, Arteaga研究室
    僕の所属するArteaga lab は、UTSWの4つのキャンパスの一つであるNorth campusにあり、研究に特化したHarold C. Simmons Comprehensive Cancer Center内にあります。Arteaga Labは、乳癌のTranslational research, 特に内分泌療法耐性の克服に研究に重点をおいており、Cancer Cell やCancer Discovery, Nature Communications, Clinical Cancer Researchなどのハイインパクトジャーナルにpublishをしているとてもactivityの高い研究室です。PIのCarlos L. Arteagaは癌研究の世界ではとても有名な先生で、潤沢な研究資金と研究プロジェクトを与えてくれます。Assistant ProfessorのAriella B. Hankerも全米期待の若手女性研究者として活躍しており、僕たちポスドクに対してとても手厚い指導をしてくれます。現在研究室には台湾、中国、インド、イタリア、スペイン、メキシコなど世界各地から人が集まっており、国際色豊かで活気があります。研究だけでなく、いろいろな文化や考え方を知ることもできるのでとても楽しく刺激的な毎日です。

    研究室での仕事
    僕は現在ポスドクとして乳癌の研究を行っています。ポスドクというのは博士号取得後、研究者として独り立ちするためのトレーニングを行い、第一線の研究者を目指す登竜門的ポジションです。Arteaga labではメンター の指導を受けながら複数のプロジェクトを受け持つことが一般的で、その中から1つでも多く論文として研究を世に出し、医学を発展させることを目指しています。研究棟はもちろんのこと、研究室にもさまざま機器が揃っており、非常に快適に研究ができます。また研究室にはポスドクだけでなく、経験豊富なインストラクターやResearch Associateがいるため、サイエンスのことはなんでも質問してアドバイスをもらうことができる恵まれた環境です。アメリカでは研究室同士の垣根が高くなく、プロジェクト毎に様々な研究室とコラボレーションをしているのも特徴的です。うらやましいことに、アメリカにはBioinformaticianが日本よりもたくさんいるので、各研究室がBioinformaticianと契約して、その解析を一手に担ってもらっています。
    僕の主な研究テーマは「乳癌の内分泌療法抵抗性の原因の一つと考えられているFGFR1というタンパクに対して、Proteolysis targeting chimera、通称PROTACを用いることでFGFR1を分解し、内分泌療法抵抗性を克服する」というものです。このプロジェクトの結果はSan Antonio Breast Cancer SymposiumやAACRでも採択されており、3年の留学期間が終了するまでに論文として出せるよう頑張りたいと思います。

    MDが挑むサイエンスの高い壁
    臨床を頑張っている若手の先生の中には、留学したいけど研究のことが理解できるかな、と不安な先生もいるかと思います。大丈夫、今あまり分からなくても留学してからすぐわかるようになります!と言ってあげたいところですが、残念なことに(そしてお恥ずかしい話)、僕の場合は当初、全くと言っていいほど理解できませんでした。また、基礎的なことを少しわかっていたつもりでしたが、実は知らないに等しいことに気づいた時には自分自身に失望しました。例えば、「Cell cycleを促進するのはCDK4/6で、これはサイクリンDと結合することでRbをリン酸化し、転写因子であるE2FがRbから乖離することでcell cycleが進んで乳がんが増悪する。これを防ぐのが臨床で既に使われているCDK4/6 inhibitorである」ということは専門医試験で覚えましたが、そもそもなぜこのメカニズムでcell cycleが促進されるのか、そしてこのメカニズムがどのように制御されているのか、などについては深く考えたこともありませんでしたので、表面的な知識しかありませんでした。このようにサイエンスにおける知識・洞察が不足していたため、与えられたプロジェクトの仮説が真に意味するところもわからず(わかっていないことに気がついたのも3ヶ月くらい経ってからでしたが)、仮説を証明するための詳細な実験計画も自分では作れませんでした。そのため、最初は与えられた指示を黙々とこなす毎日、結果が出ればまとめて報告して次の指示をもらう、結果が思うように出なければ相談して次の指示をもらう、というように主体性のないまま、ただ手を動かしてデータをまとめるだけの日々でした。プロジェクトに関連した論文を読むものの、サイエンスの概念として知らない事柄が多いため、調べてもなかなか知識として定着せず、メンターからの質問にも答えられず悔しい毎日でした。このような辛い状況を回避するために、留学を考えている先生は、大学院で研究をしている間に自分の知らない事柄はしっかりと理解できるように論文を読み、指導医の先生とプロジェクトの本質について議論して研究への理解を深めるよう努めてみてください。

    英語でのコミュニケーション
    アメリカに行く前は、3年間も英語を使って生活すれば、帰国する頃には国際学会の発表はジョークまで完全に理解できるようになり、日常レベルの会話は問題なくできるようになるだろうと思っていました。ところが、実際の研究留学では英語を話せなくても、そして話さなくても研究も日常生活も結構なんとかなってしまいます。もちろん、自分のプロジェクトのことについては話し合ったり指示をもらったりするので、ある程度は英語が聞き取れてコミュニケーションを取れなければいけないのですが、自分のプロジェクトについては研究のデータを出したり、関連した論文を読んでいるので、完璧とは程遠いものの、なんとかコミュニケーションは取れます。問題は雑談やグループトークで、自分がほとんど知らない話題は全くついていけず、知っていたとしても会話の途中で迷子になってしまうことが多々あります。特に最初の内は言いたいことがうまく伝えられないですし、何を話しているかわからないので会話に加わりたくない、と思って距離を取ることも多かったです。しかし、このままでは全く英語力が上達せずに帰国することになると思い、途中からは喋れなくて当然、もう相手になんと思われても良い、というマインドセットに切り替え、自分が喋れないことをあまり気にせず会話に加わることにしました。まだまだ会話にエネルギーが必要でストレスも感じているのですが、最近になって、ようやく日常会話が少し楽しめるくらいのレベルにはなった気がします。今はyoutubeやポッドキャスト、アプリなどで勉強できるので、留学を考えている若手の先生はいつ留学のチャンスが来ても良いように、日頃から英会話の練習をしておくことをお勧めします。

    家族と楽しむアメリカ生活
    研究や英語で苦労することも多いですが、プライベートでは家族でアメリカ生活を満喫しています。テキサスには大きな公園がたくさんあり、どこも芝生で覆われていて、川や湖があるところも多く、子供が遊ぶにも大人が散策するにもとても良い環境です。子供たちは現地の小学校とプレスクールに通っています。日本の学校との違いとして、授業のほかにおやつの時間があったり、ランチの時間にカフェテリアでアイスクリームやお菓子を買える、みんなでパジャマを着て登校したりスイッチなどのゲームを持っていける日があるなど、日米の違いを楽しんでいるようです。学校では家族が参加するイベントも多く、多くの両親が17:30に学校に集合して子供と参加するなど、仕事よりも子供・家族を優先する姿を見ると、日本時代の働き方について考えさせられるものがありました。ハロウィーンやクリスマスなどは年間を通しても大きなイベントであり、お店だけでなく、各々の家庭でも家を飾りつけたりお菓子を配ったりして盛大に祝うので、子供も大人もとても楽しんでいます。スポーツ観戦も盛り上がります。昨年は大谷翔平がレンジャーズ戦に来たので家族で観戦に行きましたが、大谷が勝利投手になってホームランを打つ試合だったので大興奮でした。実はプロサッカーもダラスにはあり、マイアミに所属しているメッシが出る試合を見ることもできます。そして、留学といえば旅行ですよね。ダラスからはNASAのJohnson space centerや白い砂丘のWhite sands, 北米のベネチアと呼ばれるRiver walk, 西部劇の世界観でアメリカ人に人気のStock Yardなど有名な観光地にも車で行くことができるので、短期での家族旅行がしやすいです。もちろん、DFWがあるので飛行機に乗っての旅行もしやすく、昨年には憧れの地、カンクンにも1週間の休暇をとって行ってきました。普段は節約生活をしている分、オールインクルーシブのホテルで好きなものを好きなだけ食べて飲んで、大きなリゾートプールや綺麗なカリビアンブルーの海で楽しむ1週間は夢のようなひとときでした。留学生活もゴールが見えてきたので、プライベートでも後悔しないように、今年一年は色々な場所を訪れて思い出を作っていきたいと思います。

    Step out of your comfort zone
    研究では結果が出なくて辛い日々、知識が乏しく議論に参加できない惨めさ、言いたいことがあっても英語で伝えることができない時の悔しさなど、日本で臨床をしていれば経験する必要のない辛いことがたくさんあります。それでもきっと、帰国するときには留学して良い経験になった、辛いけどその分成長できた、と言えるように感じています。先にも述べたように僕の最初のわからなさ具合は壊滅的でした。これまでは論文を読んでいて結果が解釈できないものについては、臨床医だからわからなくていいや、と思って読み飛ばしていましたが、こちらでは当然それは許されず、その実験をやった理由と実験手技の詳細について問われます。ラボミーティングでの自身の研究経過や関連論文の発表では、その背景や実験の技術的なところが解説されている論文を読んでまとめるため、徐々にですが確実に知識が増えます。研究について理解できるまでに必要な時間は個々人で異なると思いますが、僕の場合は「Nice presentation」と言ってもらえるまでに1年半を要しました。議論については、自身の研究内容と関連していれば多少は意見を言えますが、それ以外のことについてはなかなか意見を述べることはできていません。それでも、研究について英語で議論ができるようになったことは、日本にいる時には考えられなかったので大きな自信となっています。また、潤沢な研究資金により、金銭面を考えずに色々な実験手技を習得できることは、今後研究を続けていく上で非常に大きなアドバンテージになると思います。
    留学生活は辛いことは確かに多く、環境が合わずに予定より早く帰国してしまった、という話も聞きますが、それ以上に成長できる環境だと感じています。そして、大学で臨床試験に関わる臨床医にとって、試験を理解する上で研究の知識はこれからさらに必要になると思います。現在の環境に慣れたかな、と思っている先生はぜひ留学を検討してみてください。英語にはStep out of your comfort zoneという言葉があります。これは、自身が快適に感じる環境から自らの意思で飛び出すことで、様々な刺激・ストレスが加わり自分自身を成長させてくれるということを意味します。全く違う環境で研究だけに打ち込む日々はとてもストレスフルですが、短期間で大きく成長できる良い機会だと感じています。留学を少しでも考えている先生はチャンスがあればぜひ挑戦してみてください。

    2023 AACR
    ラボの仲間と参加した懇親会。
    左から上本、Fabiana (Italy, MD), Rosario (Spain, PhD),
    Albert (United states, PhD).

    胆道閉鎖症の外科治療と生体肝移植

    増子記念病院 総合診療・小児外科
    元 名古屋市立大学第一外科 小児・移植外科
    名古屋市立大学医学部医学研究科 臓器機能回復移植医学准教授
    橋本 俊(昭和45年卒)

    名古屋市立大学(以下、名市大)を昭和45年に卒業以来、同門会及び会員の皆様には大変お世話になり、ありがとうございました。本年で喜寿を迎え同門会卒業にあたり、代表理事の丹羽宏先生のご指示のもと同門会の若手の先生にわずかばかりの参考になればと、私の医師として歩んだ道のりを記させていただきますと共にお世話になりました同門会員の皆様に御礼を述べさせていただきたいと存じます。

    私の主たる専門は消化器外科・小児外科ですが、特に胆道閉鎖症治療を自身のLife workと決め、手術の工夫や、病態の解明に努めることにいたしました。
    胆道閉鎖症(以下本疾患)とは約1万人に1人と稀で、詳しい病因は不明な難治性の小児慢性疾患で、外科治療は故葛西森男東北大名誉教授による肝門部空腸吻合術(葛西手術)で初めて黄疸が消失すること明かされました。しかし、術後に発生する胆管炎による再黄疸、進行する胆汁性肝硬変症により、長期生存例が少ないのが特徴です。名市大は昭和40年代、新生児・小児医療においてご高名な故小川次郎名誉教授の影響を受け、本疾患も多く、昭和44年から故由良二郎名誉教授らにより葛西手術が行われ、現在52歳で生存されている患者さんがみえます。
    私は本疾患の大学では学位論文のため新生仔家兎の免疫学的胆嚢炎モデル作成の他、妊娠家兎の胎仔手術による実験的本症モデル作成を行っていました。文部省科学研究費をもらい液体クロマトグラフィー機器(HPLC)を入手、血中微量胆汁酸測定も行いました。臨床病態の診断に経皮経肝胆道造影(PTC)像を報告し、それを見学に訪れた故D.M.Hays教授との縁でロスアンジェルスこども病院(CHLA)への在外研究員として留学を許されました。CHLAでは羊胎仔手術による実験的本症モデル作成に加え、ラットを用いて脾摘術後感染防止目的の脾自家移植実験も行い、報告しました。CHLAでの実績を評価してもらい、私の後に3人の先生がBossから有給での留学が許されました。
    こうした基礎実験、研究を継続してまいりましたが臨床での外科治療(葛西手術)の成績は芳しくなく、患児が10人続けて亡くなる絶望的な経験をして、その中で生体肝移植の可能性を求めると同時に術式にOriginalなRoux-enY吻合法や肝区域に従った肝門部処理の工夫を行いました。結果、黄疸消失成績も自治医大、大阪府立医療センターでの手術に招聘されるまでに向上し、計170例以上の手術を経験しました。これと並行し、肝移植の可能性を求め外側区域移植片での生体肝移植を考えていましたから当時の赴任先、高浜市立病院では胃癌手術の網嚢切除に際して12Pリンパ節郭清をしながら肝動脈及び門脈左枝の解剖と処理の方法確認をしていました。
    生体肝移植とし当初考案したのは移植片が生着しない場合、摘出すれば救命可能と考えた異所性移植(摘脾後Space に肝外側区域の移植、移植片の肝Y動脈は脾動脈、門脈は脾静脈、肝静脈は腎静脈に吻合)でした。そこで、故伊藤信行医学部長の許可で猿舎を豚舎に改築していただき、臨床肝移植の予行演習を兼ねた子豚での実験も、この方法で開始、肝切除、肝移植片の処理の訓練はできました。その後は東北大学にも実験の見学に行き、臨床と同じ同所性移植モデルに変更(下大静脈温存の全肝切、同所性部分肝移植)豚150頭を行い、移植肝からの胆汁排泄を確認したときに実験成功を感じました。1回の手術で準備から手術器具の洗浄、部屋の掃除終了まで約13 時間かかりました。一緒に頑張ってくれた先生達には大変感謝しています。特に記録から全て終始、献身的に働いてくれた小児外科の仲間の努力なしでは生体肝移植の成功はなかったと思っています。豚の移植で解った大きな事項は肝臓の血流維持に必要なものは肝静脈の陰圧であり、肝臓の解剖学的位置が横隔膜下に存在する意義が、ここにあると理解できました。
    臨床肝移植の準備のため平成2年8月から2ヶ月間オーストラリアのブリスベーン小児病院の移植の見学に行き、後に臨床の移植もご指導いただいた松波英寿先生に大変お世話になりました。私の後にも中村司先生、清水保延先生に渡豪していただき臨床肝移植実施に備えました。
    生体肝移植の第1例は平成3年5月29日に故由良名誉教授筆頭のチームに、心臓血管外科の鈴木克昌先生、友人の東大小児外科故河原崎秀雄先生(自治医科大学移植外科教授)、オーストラリアでお世話になった松波英寿先生(松波病院理事長)、鎌田直司先生(実験肝移植免疫の先駆者)の援助、指導で実施できました。麻酔科の勝屋弘忠名誉教授の計らいで麻酔科・集中治療部の協力を得て、現在、藤田医科大学麻酔・侵襲制御医学講座教授の西田修先生が術後の管理を担当してくださいました。上手くいかなかったら大学から去らねばならないと覚悟していましたが、本当に幸い、第1例目は国内3例目となる成功例になりました。この実施までには、病院内の会議が何度も行われ、実施時期は看護部の負担にならない様配慮され、12月、1〜4月、7〜9月は外し、第一外科の小児病棟は実施1ヶ月前から半数の使用に制限を受け、実施日(月曜日)と翌日(火曜日)は他の外科手術を中止していただくように外科系診療科にお願いするように命令されていました。第一外科はじめ第二外科の同門の先生には本当にご迷惑をおかけいたしました。当時、院内講師(助手)の立場で院内の病棟、手術枠など体制変更のお願いするのは大変でした。同時に、Queen3というワープロソフトで膨大な量の倫理委員会申請文書やマニュアルを作成しました。実施予定日時がマスコミに漏れないようにする必要もありました。変に隠すより、仲間になってもらおうと考え豚の移植実験をTV局が取材に来ることを許可し、記者さんと一緒にお弁当を食べて気心を分かち合い、過剰な報道を控えてもらいました。初年度と2年目に各2例の実施が許可され、3、4年目は成功例の増加に伴い年間4例が許されました。
    工程が多く、長時間の手術、術後経過の確たるテキストがない暗中模索のような外科治療をこのように少ない頻度で行い成功を重ねることを求められるのには押しつぶされるような重圧を感じ、正直自分で判断できるかという不安もあり、術後経過、検査値を仲間の先生に終始、観察してもらい、その意見を聞きながら最終判断をするという毎日でした。
    由良教授が退任され真辺忠夫教授が就任された後もご指示を仰ぎながら移植手術を継続でき、最終的に54例の経験ができました。平成14 年に大学院医学研究科に臓器機能回復移植医学担当の役職をいただいてから、藤田保健衛生大学から見学にきた杉岡篤先生(藤田医科大学教授)が一緒にドナー手術に入られる様になりました。初期の頃ですが鏡視下の胃切除術を始められた宇山一朗先生(藤田医科大学教授)が「20 時間近く手術をやってきた」と言いながら見学に来られ、談笑したのも思い出されます。当時、先端であった超侵襲手術と低侵襲手術の出会いでした。宇山先生はその後、王貞治監督の手術をされるまでになられたのですからPioneer とは「我慢と継続」と改めて感じました。移植に踏み入れていた私には「20時間以上全身麻酔の手術は低侵襲なのか?」と思え、鏡視下手術に踏み込む度量がなく振り返れば先見の明足りなかったと後悔しています。そして、平成15年頃ですが、名市大の新病院への移行ともに機構改革のお話があり、臓器移植医療をより普遍化したいとの思いから臓器移植センター設立を願い草案を提出、同時に小児に特化した脳死移植認定申請をしていました。しかしながら、移植センター構想は認められず、脳死移植施設としての運用は困難と判断せざるを得なくなりました。そんな時、名古屋市立大学外科同門の岸川輝彰先生(当時、藤田保健衛生大学小児外科教授)の推挙があり、平成16 年、藤田保健衛生大学(現藤田医科大学)小児外科教授に就任いたしました。その後に名市大の脳死肝移植施設承認がおりましたがこれを返上せざるを得ないことになったのは私の不徳の致すところでした。藤田保健衛生大学では新たなメンバーの中で、34 例の生体肝移植を実施しました。小児外科手術も肝移植手術も失敗ではないのですが満点と思える手術は数えるほどで、危ない時には仲間に助けてもらいました。私の退職後には一緒に患児を診ていただいた同門の鈴木達也先生が教授として小児外科と肝移植を継続いただいています。
    他施設の肝移植手術では岡山医療センターでドナー手術5例任され、自治医科大学、松波総合病院ではレシピエント手術に協力できました。平成22年には名古屋市立大学外科同門会の先生の多大なご援助をいただき、第47回日本小児外科学会会長として学術集会を開催することができましたこと改めて御礼申し上げます。
    振り返れば、名市大では国内でも早い時期に生体肝移植を実施でき、胆道閉鎖症の手術生成期向上に寄与できましたが、肝移植の痕跡だけに終わらせてしまいました。結局、「モチベーションの維持」で目的実現は可能ですが、広く認められ、後進を育て、継続できることで初めて成功といえると思いました。物事の成功にはタイミングに加え、仲間に真の信頼と協力が得られることが必要で、自分には判断力も人間力も不足していたと痛感しています。
    ただ、個人的には小児外科、肝移植医療を通して学ぶことは多く、HPLCによる胆汁酸測定法、術中US, 超音波メスとIrrigation Bipolar鑷子を用いた肝切除術や膵腫瘍摘出、血管吻合技術の向上、感染症の対応、免疫応答や寛容に対する知見、それをもとにした腫瘍転移メカニズムの可能性など思いを巡らすことは大変有意義な経験と時間でした。また、旧外科では臓器別の隔たりなく手術や診療が可能であったのに加え。舟橋國博先生はじめ同門緒先生の医療施設での代務で整形外科領域を含む、さまざまな疾患の診療をご指導いただき、加えて藤田保健衛生大学の後、蒲郡厚生館病院(下郷宏先生の施設)で老健の勤務も経験させてもらいました。こうして得られた新生児から高齢者までの臨床経験は現在、増子記念病院での総合診療の支えになっています。改めてお世話になりました。同門の緒先生に感謝申し上げます。
    最後になりますが、現在45歳以上になる葛西手術後の患者さんや、生体肝移植後の患者さんが私の外来に通院されています。その中には3ヶ月時に葛西手術をし、8歳時に肝移植をおこない40歳になる患者さんもあります。「乳幼児からの成長を診続ける。これが、小児外科医療なのか」と、感慨深いものがあります。
    拙稿ではございますが、私の経験が若手の先生の少しでもお役に立てればと念じつつ筆を止めさせていただきます。

    ※当時の移植の実験と臨床の仲間のお名前を記させていただきます。;音部好宏先生、南宗人先生、中村司先生、清水保延先生、林周作先生、鈴木達也先生、田中守嗣先生、西脇慶治先生、故花井拓美先生、故小野雅之先生、鈴木克昌先生、浅野實樹先生ありがとうございました。

    日本臨床外科学会賞を受賞して

    聖隷保健事業部
    精度管理センター
    丹羽 宏(昭和53年卒)

    昨年11月の第83回日本臨床外科学会にて学会賞を受賞しました。1937年創立の歴史ある学会でその学会賞受賞は大変名誉なことです。これまでお世話になった名古屋市立大学外科同門の諸先輩の皆さま、一緒に仕事をしてきた皆さまに心より感謝申し上げます。学会賞応募には評議員以外の役員の推薦が必要で我が名古屋市立大学外科同門会の早川哲史先生が幹事をお務めであったので推薦していただきました。これまでの受賞者はほとんどが消化器外科分野で呼吸器外科からの受賞は初めてのことでした。
    選考基準には本学会の会員であって,臨床外科医として地域医療に貢献し,多大な業績をあげ,臨床外科学の発展に寄与した者とあり、さらに大学または研究機関等に在籍する者は対象としないこと,少なくとも大学・研究機関等を離れてから連続して15年以上経過していることと記載されています。私の会員歴はさほど長くはありませんでしたが、聖隷三方原病院に1996年に赴任し25年が経過していて、静岡県西部地区の地域医療に貢献してきたこと、臨床研究を継続してきたことを評価いただいたものと思います。我田引水になってしまいますが、肺癌の手術件数は3000件を超え、気胸1000件、縦郭腫瘍500件をはじめ地域の多数の呼吸器外科疾患の治療を手がけてきました。臨床研究の主なテーマは進行肺癌に対する術前導入化学放射線療法、中枢気道病変に対する気管支内治療、抗癌剤感受性試験による最適な抗癌剤の投与による予後向上、パンコースト肺癌に対するアプローチの選択、効率的な肺がん検診事業の展開等でした。これらの研究成果を学会発表や、論文にて国内外に数多く発信しました。学会活動では第34回日本呼吸器内視鏡学会会長、第24回日本気胸・嚢胞性肺疾患学会会長を務め、日本呼吸器外科学会、日本肺癌学会では理事として学会運営に参画、日本胸部外科学会、日本呼吸器学会、日本結核病学会、日本気管食道科学会、日本レーザー学会では評議員、各種委員として会務に参加しました。国外ではWorld Association for Bronchology and Interventional PulmonologyのBoard of Regentsとして会務に携わり、American College of Chest Physicians、International Association for the Study of Lung Cancerのfellowとして会の発展に寄与しました。

    受賞記念講演は「パンコースト肺癌30年の経験―予後の改善とトラブルシューティング」と題し30分間にわたり私が最も力を入れてきたパンコースト肺癌の外科治療についてアプローチの選択、治療成績、トラブルシューティングについて披露しました。ハイブリッド開催であったため会場での聴講者はさほど多くはありませんでしたが、素晴らしい講演だったと称賛を得ました。またご兄弟をパンコースト肺癌で亡くした方からもっと早く先生のことを知っていたら手術をお願いしたとありがたいお言葉もいただきました。
    このような名誉ある賞をいただくとは思ってもいませんでしたが、長く継続してきたことが評価されたものと思います。大学を離れてもこのような賞をいただくことができます。若い先生方には是非大学を離れても生涯にわたる自分のテーマを持って励んでいただきたいと思います。

    2022/4/30

    第48回日本胆道閉鎖症研究会を主催して

    藤田医科大学小児外科学講座 教授
    第48回日本胆道閉鎖症研究会 会長
    鈴木達也(昭和59年卒)

    2021年12月11日、第48回日本胆道閉鎖症研究会を主催させていただきました。新型コロナウイルス感染症の感染予防のため、ウインク愛知での現地開催とオンラインによるハイブリッド開催といたしました。ちょうど第5波も落ち着いていた時期でしたので、会場参加66名、リモート接続119名のご参加をいただき、研究会を無事終えることができました。これもひとえに名古屋市立大学外科同門会の先生方のご支援の賜物と思っております。この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。
    藤田医科大学小児外科は、初代の外科、戸田孝教授に始まり、小児外科、岸川輝彰教授、橋本俊教授のもと多くの名古屋市立大学外科同門の先生方に支えられ私に至ります。日本胆道閉鎖症研究会は、故葛西森夫東北大学名誉教授の呼びかけによって、胆道閉鎖症の分類を検討するために1975年に仙台で開催された会合に端を発します。これまで長年にわたり胆道閉鎖症の基礎から臨床までの種々の課題に関する研究成果を発表する場としての役割を果たしてきました。私も1984年に卒業以来、毎年欠かさず参加しております。名古屋市立大学外科同門としましては、故由良二郎会長(第5回、1978年)、橋本俊会長(第34回、2007年)に続き3回目の開催となりました。
    本邦における胆道閉鎖症の治療成績は、生体肝移植の導入以降32年を経過し全体としては安定したものとなってきました。しかしながら自己肝での長期生存率は未だ十分に満足な状況とは言えません。一方、成人期に達した患者さんでは、進行する肝障害や発癌など新たな問題も指摘されるようになってきました。そこで、今回のテーマを『胆道閉鎖症の いま、そしてこれから』としました。基礎、診断、手術・治療、合併症、予後そしてトランジションの各セッションに一般演題計28題を、ミニシンポジウム移植には8題の興味ある報告を頂きました。胆道閉鎖症の病因、診断から治療および予後まで、胆道閉鎖症の「いま」を知り「これから」どこを目指せばよいのかについて、有意義な議論を交わすことができたと思います。名古屋市立大学小児・移植外科で、橋本俊教授が生体肝移植のプログラムを開始されてから藤田医科大学小児外科においても、葛西手術は勿論小児生体肝移植のレシピエント手術も小児外科医が担当しています。小児外科医としてはできる限り自己肝生存を目指したいという思いと、移植医としてはなるべく良い状態で移植手術を行いたいという思いとのジレンマに悩むこともあります。そこで、特別講演として国立成育医療研究センター臓器移植センターセンター長の笠原群生先生に『移植医から見た胆道閉鎖症の患者さんに対する肝移植のタイミング』をお願いしました。日本の小児肝移植3582例および国立成育医療研究センターでの小児肝移植700例(うち308例が胆道閉鎖症に対する肝移植)のデータの詳細な分析結果を示していただき、胆道閉鎖に対する肝移植成績は非常に良好であるが、小児外科医と移植外科医のさらなる連携が重要であることをご教示いただきました。
    今回の研究会の主催をさせていただいたことで、胆道閉鎖症という難病と闘う患者さんおよびそのご家族のため、医局員一同より一層の努力を、臨床および研究そして社会貢献に続けていく覚悟を新たにしております。最後になりますが、今回の研究会開催に際し、準備から当日の会場運営まで頑張ってくれた医局員および秘書の皆さんに深謝申し上げます。
    以上、第48回日本胆道閉鎖症研究会会長の責務を果たすことができました。名古屋市立大学外科同門会の先生方に重ねて御礼申し上げましてご報告といたします。

    2022/4/30

    愛知医科大学病院臨床腫瘍センター腫瘍外科教授に就任して

    愛知医科大学病院臨床腫瘍センター腫瘍外科 教授
    矢野智紀(平成2年卒)

    皆さまご無沙汰しております。本会報が皆様のお手元に届く頃にはコロナの勢いが弱まっているといいのですが、皆様くれぐれもご自愛ください。
    さて私こと令和3年10月1日付をもちまして愛知医科大学病院臨床腫瘍センター腫瘍外科教授を拝命いたしました。呼吸器外科との兼務になりますが、愛知医科大学と呼吸器外科学、腫瘍外科学の発展のために精一杯尽力する所存でございます。今後ともより一層のご指導、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。また諸先生方には数々のお祝いのお言葉も頂戴しこの場を借りてお礼申し上げます。
    愛知医科大学に特任教授として異動し6年になりましたが、当初は文化の違いに戸惑いました。呼吸器外科は僕以外にもう一人特任教授がおりましたが、主任教授は院長職に専念され、それ以外の3名の呼吸器外科医は外科専門医ももたない研修医上がりで、日々の臨床をこなすのが精一杯。研究や自己研鑽に割く時間は無いようで教授回診や抄読会もなく、学会発表の予行もせずに本番を迎えるという状況でした。科研費も応募しないので呼吸器外科創設以来一度も科研費の獲得もない状況でした。愛知医大呼吸器外科からの英語論文は症例報告が1本という状況でしたので、まずは名市大時代のデータで英語論文を執筆し、従来の仕事をしていても論文が書けること、科研費も書き方から教えて、応募すれば獲得できることを見せていきました。結果として自身の論文以外にも医局員一人ひとりの名前で原著や症例報告を作成することができました。科研費に関しては自分以外で獲得はまだありませんが、A判定もいただけるようになり、やっと普通の診療科程度になってきました。しかし現状呼吸器外科の大学院生もおらず、外科の研究室といってもただの物置で、せっかく獲得した科研費も自前では研究ができず、基礎の先生方にお願いして代わりに実験していただいたり外注したりでなかなか進まない状況です。
    学生も愛知医大と名市大ではカラーが違います。皆良家のご子息ご令嬢でのんびりしていて、ギラギラしていません。女子学生の比率が高く開業医の子供が多いため外科の入局希望者は少なく、数年間呼吸器外科も入局者がありませんでしたが、一昨年2名の入局があり今後の希望が見えてきました。
    臨床においては周囲の病院、診療所に旧知の先生方がおられ、多くのご紹介を賜り、着任以来手術件数を大きく伸ばすことができました。このようにして徐々に院内の他診療科の先生方から信頼していただけるようになりました。呼吸器外科の教授選挙の際には教授会から圧倒的なご評価もいただきましたが、私立大学の難しさもあり、呼吸器外科の教授ではなく臨床腫瘍センター腫瘍外科の教授の席をいただくこととなりました。今後は臨床腫瘍センターを縦隔腫瘍治療センターとして、またセンター化の強みとして他診療科と協力し、肺腫瘍、縦隔腫瘍のみならず、頚胸部、胸腹部など領域をまたぐ、複数の診療科で治療するような難症例の治療を推進していきたいと思います。何卒皆様のご支援ご協力のほどお願い申し上げます。

    2022/4/30

  • 御射鹿池

    名古屋市立大学 名誉教授
    真辺 忠夫

    長野県奥蓼科の高原にひっそりと静かに佇む御射鹿池(みしゃかいけ)。この辺りは、標高1500m、その静寂に包まれた水面には山々や木々が逆さに映り込み、幻想的な光景を醸し出しています。日本画家の東山魁夷の『緑響く』の絵そのもので、「一頭の白い馬が緑の木々に覆われた山裾の池畔に現れ、画面を右から左へと歩いて消えていった---(東山魁夷)」のように、今にも白い馬が出てきそうな雰囲気に引き込まれました。

    2022/4/30

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